昭和47年09月10日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」

 昨日私はある若い先生に、ここの先生ではありません。他所の先生に申しました事でした。兎に角先生、あなた自身が助かる事ですよと。あなた自身が助からずして、例えば、信者が助かるはずはないですよと。あなた自身が助かる事。そこであなた自身が助かる事の為の精進をなさらなければいけません。それは、私は助かっとりますと言う。その助かりという事の中には、ピンからキリまである。私共が助かると言う。
 だから本当の助かりを求める姿勢というものがね、私共が作らなければいけん。例えば今金銭に不自由をしておる人が、金銭のお繰り合わせを願うという事も、助けを願う事でもある。今病気をしておるから、その病気から助けて下さいと言うのも、やはり助けを求める事であり、おかげを受けたら、助かったという事である。けれども、本当の助かりというのはそういう物質的なものやら、肉体的なものではないのです。本当の助かりというのは心が助かるという事です。
 例えばお金は無くても、例えば病気はしておっても心が助かるという事。本当の助かりというのは、心が助かるという事なんです。そこんところを心の助かりに従って、本当に今度は心が助かってきたらですね、お金に不自由する筈もありませんし、病気で苦しむ、悩む事もない筈です。ですからどうでも、心の助かりを願わなければならんのです。自分が泳げずしておいて、そこに溺れておる者を助けるなどと、とんでもない事です。自分も一緒に溺れなければなりません。と、
 私は昨日若い先生に、その事を申しました。問題は自分自身が助かる事です。難儀な氏子を助けよう。人が助かる事さえ出来れば、と、金光教の信心をさせて頂き、とりわけ教師にでもならせて頂いたら、それを思わん者はありますまい。為には自分自身が助かっておらなければ。人を助けられるはずがないです。それでも、形の上のおかげを頂いてです、本当に無い命を助けて頂いた。本当に金銭の難儀な不如意の中からおかげを頂いた。そういう体験を持つという事は言わば助かっとるとですから。
 その体験を聞いて貰うただけでも、助かるという事実はありますね。けれども本当に助かるという事は、自分自身が助かる心が助からなければ、本当の助かりとは言えません。だから心の助かりと言うてもです。皆さんのここに百名なら百名の皆さんが、ここにおられるとするならです。一人一人に助かり方は違うと思うんです。本当に合楽に御神縁を頂いて、教えを頂くようになり。修行の真似事でもさせて頂くようにならせて頂いたら、この様な事柄の中にでも心が安らいでおる。
 喜んでおられるという助かりなのですから、それはピンからキリ迄あるです。それを完璧を目指すと言うですか。どの様な場合であっても助かっておる自分という者を見極めて、それを有難いと思わせて頂く生活。いわゆる神恩報謝の生活を願わせて頂かなきゃならん。そこで合楽では、せめてここ迄は分かって置かなければいけないよ。ここ迄は助かって置かなければいけないよという事になる訳です。
 勿論その助かりというものは限りがない。今日の御教え等を頂いておりますと、確かに、疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてある。疑いを放れて本当の神観ですね。神様を観るそしたら、これは絶対安心が頂ける。私は今日はこんな事を頂いたんですよ。お互い安心ということを言いますね。安心と言うのは、あれは神様から頂くものではなくて、自分が作るものです。安心と言うのは。神様どうぞ安心のおかげを頂かせて下さいと言うて願うただけでは安心は頂けんのです。
 これは本当に御教えに基づいて、本気で自分が修行をしたり、御教えを行の上に一生懸命自分が、それを表わしていくという精進をして、初めて頂けるのが安心です。頂けると言うでしょうか、自分で作っていくという事になるかも知れませんね。安心というのは、自分で作っていくものです。それを神様が下さる。一生懸命精進するから神様が与えて下さるのが、安心だと言い換えれば言うてもいいですけれども、大体はその精進なしに、どうぞ下さい下さいと言うても、神様が下さらんところをみるとです。
 やはり自分が作ったという事になる。同時に今日の御理解のように、わが身は神徳の中に生かされてあり、わが身は神徳の中に生かされてありという事になりますとですね。これは大きな安心が生まれてくるですね。まぁ言うなら法然上人とか、親鸞聖人様が感じられたり、頂かれたものは、そういうものじゃないでしょうかね。悪人正機(あくにんしょうき)ですかね。何とか申します。とにかく、悪人でも助かるんだと、善人ですらが助かっておるのだから、悪人なら尚更助かるんだという大きな悟りです。
 例えば、天地金乃神様、親神様として表現しますね、金光教では。その親神様が、憎うしてこの手が当てられようか。いや屑の子があれば屑の子である程助かるんだと。善人はまぁまぁ親も安心しとるけれども。悪人である子供は、行き先、これがどのようになるであろうかと思うから、御心配もまた酷い。屑の子ほど可愛いいと言う。教祖も仰っておられます。そういう意味ででしょうね。悪人なおもて助かると言うのです。
 だからこれは、それでも理論の上では、確かにそうだなぁと思いますし、それが段々実感として、そういう大愛ですね。神の大愛の中にあるんだからと、分からせて頂いただけでも、そこに何とはなしに、心が安らいで参りましょうけれどね。今日私が言うのは、本当に、自分も助かり、人も助かるという事。本当に自分の心が助かるという事。それには、信心修行が必要である。その信心修行に与えられると言うてもよければ、これは本当は、安心というものは、自分で作っていくんだという事にもなるんです。
 もう少し難しく言うとです。天地金乃神様と言うのは、所謂、宇宙を指しておられる、宇宙全体の事を。人間を初め、あらゆる動物、生きとし生けるもの、その森羅万象全てことごとくが天地金乃神様のお心の中にあるのであり、宇宙の中にあるのだ。天地金乃神様が親であるならば、私共は、その氏子であるところの子供である。だからこの事を、あぁそうだと信じられたら、そこに安心が生まれてくるはずです。
 親だから、親神様の懐の中にあるのだからと言う、まあ安らぎが生まれてこなければならないはずなのですけれども。やはり信心修行を、本気で取り組ませて頂かなければ、その安心とても許されない訳ですね。だから神様とは何か、金光教で言う。という事は、宇宙とは何か、と言うような事にもなるのです。そして神様と自分と言うものは一体だと。親と子ですから、そういう繋がりがあるんだと。宇宙とは何か、即ち、自己とは何かという事になるのです。
 神様とは何かという事はね、自分という者は何かと言うことになるのです。難しいですね。言い換えると、宇宙観、神観と言うてもよい。それは自己観、自分を観るという事と同じなんです。今日の御理解のところに「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ」と言う事は、そういう事を分かる事です。成程、宇宙との繋がり、そのつながりも親と子としてのつながり。神はわが本体の親ぞとも仰るでしょう。信心は親に孝行するも同じ事。教祖の神様は、この方が祈る所、天地金乃神と一心なりと仰る。
 ここんところを、本当に喝破されておられる訳ですね。同じ心だ、一つの心だと仰っておられる。そんなら、これは教祖の神様の専売特許ではない、お互いがそうなのだ。ここのところを難しゅう聞いて頂いた訳なんですね。宇宙とは何か、即ちそれは、自己とは何かと言う事になる。宇宙観、即ち自己観だと。そういう事がです、理論の上にでも、段々分かってまいります。それを、実際の上にです。自分の心に、それをそうと感じられる事の為に、修行するのです。修行する事によって、安心が得られる訳です。
 成程、どういう場合であっても、親が憎うして、この手を当てられようかという神愛というものが、じかにこれに伝わってくるからです。どんな難儀な中にあって、言うなら、泣き面に蜂という様に、叩かれた上にも叩かれるような場合であっても、神様有難うございますと、その神恩に感泣しなければおられない程しの素晴らしい事になってくるんです。いよいよ、わが身は神徳の中に生かされてあるという事が、実感として分かってくるからなんです。
 そこでです。そういう風に分かってまいります時に、初めて助かったという事が言えると思うです。一切が神愛だと感じれれるのですから。もうこれは絶対の助かりですこれが。それを絶対信とも申します。神様を信じて疑わない絶対信です。いわゆる神の絶対愛を信ずる。そこに生まれてくるのが安心。言うなら本当の意味に於ての心の助かりであります。それを合楽では非常に見易う見易う心の助かりを説く訳ですね。その為に修行として、成り行きを大切にしていきなさいよという修行をする訳です。
 その成り行きを、何故大事にするかと言うと、それは、神様のあなたに対するお働きなのですから。その成り行きを、その時点時点で、それは歯痒い事も、腹の立つ事もあるけれども、そこを合掌して受けていくうちにです。それが、段々神愛だと分かってくる。成程、御の字をつけて、御事柄として受けなければおられなくなってくる。もうそこに助かりがあるでしょう。全ての事を御事柄として受けられた時には、もう貴方は助かっておる時なんです。
 ですから、小さい御事柄の時には助かっておるけれども、それが中位になったり、大きくなったりすると、御の字がつけ難うなってくる。そこのところの精進をしていくのです。その為には、例えば頭の中だけでも、私が前半に申しましたような事が、分からなければいけんのです。それにはやはり、疑いを放れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあるという事実をです。私共が体験する。それを頭でも分かってくる。そして、その修行として、成り行きを大事にしていく。
 しかもそれが段々、御事柄として、御の字をつけて頂く事になるほどしになった時に、あなたは、いよいよ助かりの道を、一筋に歩いておられるんだという事になるのです。これは、もう限りがないです。スキッと、垢抜けした頂き方というのは、中々出来るもんじゃありません。例えば一時間二時間ぐらい、時間がかかる事もある。いや二日も三日も、その事が、心の中に引っ掛かった。いや一年も二年も引っ掛かって、この事だけは、どう思うてもという事があるのです。
 それを何かの調子に、スキッと自分の心に、それを神愛であったと悟らせてもらう時にです。只あるものは神愛のみ、有難いという事だけになってくる。皆さんのこうして朝参りの修行という事を、先日から、表行というのは形の行ですから、いろいろありますよね。先日から、末永先生が、断食修行をしとりました。丁度まる八日間、八日目の朝、お許しを頂いた。こういうのは、烈しい表行なんです。けれどもそういう表行は、あんまり私は、大した事はないですけれども。
 神様からお許しを頂く迄は、食べんというこの潔さが、やはり素晴らしいですね。いつお許しを頂くやら分からん。三日間断食をします。十日間断食をしますと言うなら、案外、楽ですよね。十日経ったら食べられると思うから。けれどもそれはまる八日目にお許しを頂いた訳ですけれども。いつ迄続くやら分からないほどしの事に取り組むという、その潔さが私は表行を非常に素晴らしい事だと評価致しますね、私は。
 表行はもう、つまらんもののように言うけれども、そういう意味では素晴らしい。けれども、それはですね、本当に自分が、本当の助かりを得たい為になんです、本当の助かりを。朝の御祈念の時に、その事のお礼を申させて貰いよったら、今日ぎりで断食を終わるように頂いた、その朝。昨日一昨日でした。皆さん、御祈念すんでから、帰られたら、上野先生がここへ出てきてから、今日、御祈念中に、末永の断食の修行の成就という事を頂いた。私も今朝から頂いた。あんたも頂いた。
 しかし上野先生、有難いこつじゃあるなぁ。神様がそげな事を、あんたに教えなさるちゃ、大変な有難い事ばい。そういう時に、神様と交流する時の、あんたの心の状態というのはどうかと言うと、本当にあんたがある意味に於て、助かっておる時なんだ。不平もなからなければ不足もない。ただ有難いと言うこと。してみると、上野先生その心の状態というものを、いよいよ育てていくという事が信心よ、と言うて話した事でした。そういう状態になる時に、所謂、神様と一体になっておられる。
 師匠が頂いておる事と同じ事を頂いておる。ですから、それを大事に大事に育てていくという事が信心だ。ところが、一つ間違うと、情けなかったり腹が立ったりするところにです。本当の自分の助かりではないなという、助かっていないんだなぁと言う、そこに焦点を置いて、何が邪魔をして助かる事が出来んのかという事をです。気付かせて頂く事が、改まりという事です。本当に、御事柄として頂けるようなおかげを頂くという事は、もう既に、助かっておるという事です。
 昨日久富勇さん所の謝恩祭でございました。あちらへ参りましたら、光橋先生が、先生、今日は午後から、ずっと奉仕のおかげを頂いたが、文男先生から電話がかかって参りました。単車と正面衝突をしなさった。自分は自動車ですから、どうもなかったけれども、相手の方が怪我をされたとこういう訳です。はぁおかげ頂いたなぁ、昨日じゃったり一昨日じゃったら、あそこは展示会があっておりましたからね、お繰り合わせ頂いたもんじゃあるなぁ有難いなぁと、思うてお礼申させて頂いておりましたらね。
 うさぎの可愛いいうさぎを頂いた。それがもう耳がこんなに長いうさぎなんです。それで私は思うた。童謡にありますよね。「うさぎのお耳は何故長い、母さん言うこと聞かないで、お耳を引かれて長いのか」ち言う。親の言う事を聞かんから、そうなんです。だから、それは丁度、白うさぎを見て可愛ゆうてたまらんような格好しておるように、そんなら、神様から御覧になっても、可愛いいのです。これは文男先生だけがそうじゃないけれども、皆がそうなんです。私から言うても可愛ゆうてたまらんのである。
 けれども自分の信心。これはというものは自立しておる。言うなら絶対腹を立てないなんて言う。此の頃あれは研修会の時でしたか。あんな事言うてからと私は思いましたけれども。私は絶対朝参りなんか出来ませんでしょうと、こう言ってましたですね。こういう事が真っ向から、私は親先生あぁたがいくら言うたっちゃ朝参りだけはしませんよと言うとる事でしょうが。私がもう朝参りという表行ですね。先日から表行という事の最高は、朝参りだと、金光教ではと言う意味の事を申しましたように。
 その一番素晴らしいその行をです私はしない。けれどもこれだけはそん代わり誰よりか守るという事を、いくらもやってる訳です。言うなら腹を立てんというだけでもです。素晴らしい事だから、おかげを受けておるけれども。これはあの時に片岡千恵蔵という様な意味で頂きましたですね。半分の修行であるから、それでもやはり千恵蔵です、千の恵みの蔵と書いてある。おかげを受けておる。けれどもこれでは例えば、母親なら母親の愛を受けるというだけの事であって、父親の愛を受けるという事にはならない。
 陰と陽とが一つにならなければ、本当のよいものは生まれない。昨日の朝の御理解の中にも、申しました様に、人間と身代と達者が足ろうほどしのおかげにはならないという事です。だから、文男先生がです。本気で朝参りをそんなら福岡から、毎朝参って来んならんという事ではありません。お日参りという事は一週間続けても、やはりお日参りです。三日間続けてもやはりお日参りです。それを三日を四日にし四日を五日にしていくような稽古をさせてもらおうという精進。
 その潔さがなからなければ、信心は伸びません。もうここ迄も分かっておるのに、その事だけは、どうして分からんかと、耳を引っ張られた姿が、そういう事じゃないでしょうか。それでも、神様の愛情が、そこに感じられるでしょう。前の日であったら、もうそれこそ、お商売の方にも支障が来るでしょう。あれもこれも終わってから、神様は適当な時に、もう叩くなら頭叩いちゃでけん、お尻を叩けという様な事を言われるが、言うならお尻叩かれたようなもんじゃないでしょうか。
 文雄先生がだからですね、お互いの場合は、朝参りと言う素晴らしい修行をしておるけれども。そんなら文男先生がごと、徹底して腹は立てんと言うほどしに助かってはいないでしょうが。ちょいとした事に腹が立つ、ちょいとした事にクーッとする。そこんところをです。そんならこの人は、一生懸命、修行しとるです。初めから腹が立たん事はなかった。それは、もう立ってどんこんされじゃった。
 けれどもそれを朝参りも、出来んから他の人のごたる修行も出来んから、これだけはと言うて、一生懸命の修行させて頂いて現在では、本当に大体腹を立てんですむほどしのおかげを頂いておるから、千恵蔵のおかげを受けられておる訳です。けれどもこれでは本当のものじゃない。朝参りなら朝参りの修行が出来て初めて、せめて一月のうちに一週間でも五日間でも、朝参りをさせてもらうというごたる。言わば完璧に出来なければ神様はおかげ下さらんという事じゃないのですよ。
 和賀心、和賀心と言うけれども、本気で人間は、和らぎ賀ぶ心にならなければ、幸せにはなれないんだと思い込んで、それになろうと努める姿勢を作っただけでおかげ頂くです。昨日、北野の上野先生の弟が、今毎日参って来よります。善導寺のお母さん達と一緒に、ここへお届けをさせて頂いてです。商売が今日はどうもあんまり忙しゅうないなぁと思う時にはお母さん、私は必ず天地書附を三回唱えるち言う。そすとお母さん不思議に商売があるのと言うて、話したと言うております。
 まぁだ言うなら、初心まぁだ初めての人。和賀心になってしまわなきゃならんじゃない、三回唱えて、和賀心になろうと努めただけで、もうおかげを頂いておるという事を、昨日お届けしております。ですから、お日参りという事でもです。例えば三日のお日参りから十日のお日参り、十日のお日参りから十五日のお日参りと言う様にです。日々続けて参るという事が日参りと、私はそう思うです。
 それが完璧に出来るようにならせて頂いて、表行の最高と言われる、朝参りが出来て、そうして腹は立たんですむほどしの道理も分からせてもらい。そして立たんですむほどの修行が出来た時に、あなたは助かっておるという事が言える。その助かりというのは、もう限りがない。昨日、私は、久富さんの所で、行く早々、少し私が、癇癪を回した。というのは、あまりにお御馳走を作っておる。
 私がどうしてこげん、うんと食べきるかと。そして最後にまぁた怒られるかもしれませんばってんからと言うて、こげな大きな鯛ば一献座りを、ずうっと出す訳です。もうこれは一匹出しときゃええ、ある事が分かったならと私が申しました。食べきる段じゃなか。さぁお神様の方を見れば、もう本当にそれこそブリでも鯛でも、大きなのがお供えしてある。しかも特級のウイスキーなんかがお供えしてある。馬鹿じゃなかじゃろうか、あんたどんばっかりはと。
 言うなら、芸性ん叶わんくせに。それこそ、もう本当に、今は、露草の露と思われるほどにです。泣き面に蜂ちゅうごたる状態の中にあってです。こういう事をしてから。そげなこつで神様が喜びなさるもんかい。うちの畑で取れました、これはホウレン草のお浸しでございます。これはゴボウの千切りでございます。これは、芋のがめ煮でございますと言うならば、私が喜ぶけれども。こういう事をして、私が喜ぶと思うかと、という訳なんですね。これはね、私の思いなんです。
 私は、その事を言うて、神様にお届けさせてもらいよったら、教祖の神様の時に、大阪から近藤藤守という、教祖の神様の直信であり、一番偉いお弟子さんだったと言われる方が、大阪におられました。近藤藤守先生と言う。それから山口に唐樋常蔵と言う、もうそれこそ飛ぶ鳥落とすほどしの御神徳を受けられた先生がおられた。二人共毎月御本部へ参拝になる。近藤さんあんた達は夫婦で、毎月こうやって参って来るけれども、うちでは信者が、あんたがおらんと難儀をする。
 また沢山の金を使うて、毎月参って来んでも、大阪の地から拝んでも良いと言われるけれども。言われても言われても、やっぱ参って来なさる、しかも夫婦で。山口の唐樋先生も、やはり毎月参って見える。やっぱり同じような事を言われた。唐樋さん山口の方から拝んでも、神様には通ずる。そんなに毎月大きな金をかけてから、参って来んでもいい、と言われた時に、唐樋先生は、それもそうだなぁと思われた。
 それから月参りがパッタリ止んだ。止んだのと同時に、もうそれこそ、飛ぶ鳥落とすほどの御比礼が、落ちてしまってお広前にはピョンピョン草が立つほどしになったと言われております。晩年の頃には小倉の桂先生の所に頼って行かれるほどしになった。ところが、大阪の近藤藤守先生の場合は、いくら言われても、いくら言われても、やっぱりお参りして来なさる。ある時などはもう声を荒らげてです。
 これ程言うても分からんかと言うて仰った。時にそれこそ真を表に現わして、近藤藤守先生が、教祖の神様に仰った事はです。勿体ない事でございますけれども、私共夫婦には親がございません。大谷の生神様を、親様とも思うて、お参りさせて頂いておるのでございますから、この事だけは曲げてお許しを頂きますようにという、お願いをなさったという事です。教祖様が直ぐ御神前に出られてからね、御裁伝があった。神様から、直接のお知らせがあった。
 そのお知らせに「近藤藤守真の信心になった」という事だったげな。ですから私が昨日、久富さんに言うたのはです。今のこの貧乏の真ん中という、しかも夫婦の者があの体の勇さんなんか、まぁだ動きが取れないほどしの重態と言や重態です。あれが病院にどん行っとるなら。家内もずっと胃が悪くていつも、こげんしてござるという訳なんです。収入もない兎に角勇さん方の畑と言うたら、それこそ草ぼうぼうだという事です。
 畑は持っとっても、種も蒔かなきゃ、苗も植えられないと言うのが、現在の状態です。その状態の中に、こういう事をしてからというのは、それは丁度教祖の神様が、金かけて参って来んでもよいぞと、何回も何回も仰った。それは嘘ではない、本当に教祖の神様の実感であったに違いはない。私が勇さんこげなこつせんでんよかばいち言うのは、私の実感なんです。しかも反対におごられてから。けれども曲げてこの事だけは、お許しを頂きたいと言うのがです。昨日の私はお祭りだったと思う。
 神様から頂きました。人間の一番、お金がない時ほど、真心一心と言うものは出せれるんだという事。そんならこれが、ちっとばっかり、お祭りに十万かけたっちゃよかちいう位、余裕の出来るおかげを頂いたと致しましょうか。絶対、もうこの位でよかろうというお祭りしか出来んです。これは絶対です。してみると、そこに、もう真が欠げておる。これが人間の姿なんです。
 だから今一番難儀の骨頂という時にです。露草の露と言われる、泣き面に蜂ちゅうごだる時ほどです。信心が分かってきたら、神様にいわゆる根限りの事が出来る訳なんです。私は、昨日の、私共が頂いた御直会の上に、あのお供えの上にです。その久富さん達夫婦の根限りのものを感じた。そして成程神様はそれをお喜びになる。それこそ教祖の神様の言葉を聞くならです。久富勇夫婦真の信心になった、というような事じゃないでしょうか。ですから皆さんも、私が言うところの事です。
 そうですたい忙しゅうなかじゃけんで、ゆっくりなってから参りなさいと。これは私が言うておる事です。実感なんです。だから明日どもお参りしましょうと、それでいい訳です。けれどもそれではそれ迄の事なんだ。信心というものは実にデリケートですはね。そういう、ちょっとした心の動きが、神様の心を動かす訳。言わば今日の御理解で言うとです。いわゆる宇宙と小宇宙であるところの軸というものが、一つになっておる。親神様と氏子とが、もう一つになる。
 これは一つの方法と言うかね。わが身は神徳の中に生かされてあるという、喜びをそこに実感するところのおかげというものが頂けれる。先々日に原さん所の娘達が、福岡の方へ屋移りをした。皆でお手伝いに行ったところが、大きな家だそうですが、そこの表と裏に、大きな榊の木があったち言う。見事な榊なんです。そん時に原さんが一番初めに思わっしゃった事は、いやぁこれは素晴らしか、勇さんの所の今度の宅祭の玉串に、これば頂いて帰ろうと言うて、沢山それは見事なお榊をね。
 親玉串なんかでも、大祭に使いたいごたる、立派な玉串をです。もう神様が前の前の日から、もう先に立って準備しよりなさる事を感ずるでしょうが。昨日一昨日でした。高芝さんが、今日は、勇さんの所にお神酒のお供えを持って行きましたち。丸亀んととうちのと一緒に。いやぁ、そりゃ勇さんが喜びなさったろう。有難い勿体なきが、もう前日から集まってくるち、有難いこつのと言うようにです。
 もう神様がそうしなければおられないほどしの働きを、そこに感じておるから、もうこの位でよかろうという事ではなくて、もう言うならば、出来る限りの事をされたという感じですね。そこで今日私は、そこんところをね、教祖金光大神が仰る、そげん金かけて参って来んでんよかばいと言うのも、これは絶対嘘ではない、駆け引きに仰っておるとじゃない。けれども、それを、尚また押してです。
 どうでもと言う時には、これは所謂近藤藤守、真の信心になったと言う。本当の神の願いというのは、その真の信心を受けてくれる事だと言う事なんだ。その時に、初めて神と一体であると言うかね。そういう信心が分かる時なんです。疑いを放れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に行かされてあるという事をです。頭の上だけではなくて、心の上にも、それを分からせて貰い。
 体験の上にも分からせて頂いた時に、私は、言うならば、完璧と思われる位に助かった時なんです。いわゆる絶対信が生まれてきた。そこに神の絶対愛を信じ受ける事が出来る。わが身は、成程、神徳の中に生かされてある。本当におかげの世界に住まわせて頂くと言う事が、出来ると言うほどしのおかげ。それを合楽では見易うまぁ実際に取り組んでみると、見易いとばかりは言われませんけれども。簡単な言葉で言っておる事が、成り行きを大事にして行きなさいよという修行なのです。
 そしてそれに御事柄、御の字がつけられるほどしの信心を頂きなさいという事です。それには表行と心行と、例えば文男先生の信心を心行、腹を立てんというのが心行であるならば朝参りの信心を、言わば表行の最も有難いものだと分からせて頂いて、この二つが出来るようなところからです。わが身は神徳の中に生かされてあるほどしのおかげも、又はその実感も伴うた、信心生活ですね。それが出来るという事になるのですよ。
   どうぞ。